通いながらここに住む、と確信。“安心感”に包まれた場所です。
平野馨生里さん のプロフィール
平野彰秀(1975生 岐阜県岐阜市出身)
平野馨生里(1981年生 岐阜県岐阜市出身)
<お子さん> 源一くん(2012年生)
馨生里さんは、慶応大学総合政策学部(SFC)卒業後、外資系の広告代理店に就職。郷里の岐阜の地域づくりに惹かれ、Uターン。結婚後、2011年9月に石徹白に移住。自宅を改装し、ショップ&ギャラリーの「石徹白洋品店」を2012年5月に開店しました。
互いに石徹白に惹かれ、結婚した平野夫妻の想いを、馨生里さんにお聞きしました。(2013/10/16 インタビュー)
(彰秀さんは、東京大学大学院で都市工学を専攻後、外資系経営コンサルティング会社等を経て、32歳で岐阜市にUターン。現在は中山間地域の地域づくり活動と、自然エネルギー(小水力発電・木質バイオマス)導入に携わっています。彰秀さんの暮らしや想いは、こちら をご覧ください)
○「自分が住む場所はここだ」と思いました
◆ 海外で自分自身に気づく
大学1年生から4年間、内戦で途絶えていたカンボジアの伝統的織物、「クメール織物」の復活プロジェクトに参加しました。当時は、海外に住むことに憧れていました。
プロジェクトではフィールドワークを行い、住民へインタビューをするのですが、その中で人々が自分たちの伝統織物に誇りと、強いアイデンティティを持っていることを知りました。その時、彼らにとっての伝統織物のように、私は誇れるものを何一つ持っていないことに気づき、とても恥ずかしくなったんです。だからまずは、自分が生まれ育った場所を見つめ直したいと思いました。
以前は「岐阜は田舎でつまらない」と思っていましたが、それから地元を見直し始めました。東京に住む、20代から30代の岐阜県出身者が集まり、東京からふるさとを応援しよう、と「G-net Tokyo」を立ち上げました。その集まりの中で、岐阜のことを知らない故に、岐阜出身だと胸を張ってなかなか言えない「岐阜劣等感」について話をしているうちに、逆に岐阜の誇れるものを見つけていきました。
大学卒業後に東京で就職しましたが、いつか岐阜に帰るつもりだったので、終身雇用は考えず即戦力として仕事をやらせてもらえる会社を選びました。
東京で仕事をする傍ら、2004年に「水うちわ復活プロジェクト」がスタートし、月に一度は岐阜に帰省し参加していました。そんな中、水うちわに関する本を書かないか、という話があり、しばらくは仕事と執筆活動を両立していました。でも仕事との両立は無理 ―― と考え、退職して岐阜に戻ってきました。
◆ 石徹白に出会うきっかけ
水うちわの活動をともにしてきた岐阜の若者まちづくり団体ORGANの仲間とともに「長良川流域持続可能研究会」というのを立ち上げました。ここでエネルギーについて興味をもち、小水力発電の導入に協力してもらえる地域を探して、長良川の上流である郡上の地域を回りました。その中で石徹白のNPOのみなさんが受け入れてくれたんです。
水力発電導入のプロジェクトが始まる2007年夏、大皿に盛られたトウモロコシを食べました。その味が、あまりに美味しくて感動したのを覚えています。
そこから半年間、石徹白に通いました。通っているうちに地域の方とのかかわりができ、石徹白をどんどん好きになっていきました。石徹白の人は石徹白がいい、石徹白が好きだ、という前向きな人々が多く、自分の住む地域に誇りを持ってみえます。そしてオープンマインドでいつも朗らか。これは石徹白ならではの魅力と感じ私もこの地域に住んでみたい、と思うようになりました。
◆ 「私、石徹白に住みます!」
2007年の夏から2008年の冬にかけて、小水力発電のプロジェクトで石徹白に通いながら、「石徹白に住みます」と地域の皆さんに言っていました。いくつか空き家を見せていただきましたが、その時は本気にしてもらえていなかったですね。若い女性が一人で住めるものではない、と。
そんな時、プロジェクトに一緒に参加していた今の主人も石徹白が大好きになり、2007年11月にお付き合いを始めて、翌年9月に「いつか石徹白に住むこと」を前提に結婚しました。主人は結婚と同時に“寿退社”して、岐阜にUターン。引き続き新しく小水力発電のプロジェクトを立ち上げながら、夫婦で石徹白に通いました。
石徹白で仮住まいをしながら夫婦で3年間通い、2010年12月、今の家を手に入れました。家は築100年以上の古民家。改修を経て、翌年9月に晴れて石徹白住民になりました。
○石徹白の暮らし
―― 石徹白での活動や暮らしは
石徹白暮らしを決めてから、石徹白でできる仕事を自らつくりたいと思いました。服飾の専門学校に2年間通い、麻や絹、綿などの自然素材を使った服の制作と販売、そして小さなギャラリーを併設した「石徹白洋品店」を2012年5月にオープンしました。
また、先人の暮らしと、そこにある知恵を聞きまとめる「石徹白聞き書きの会」を、子民間活動の一環として担当しています。このおかげで、地域のお年寄りのみなさんと知り合うことができ、とてもよくしてもらっています。
そして、地域の女性10名ほどで運営するコミュニティカフェ「くくりひめカフェ」に参加して、伝統的な食事や山菜などの処理・保存方法などを学んでいます。
―― 石徹白のみなさんはどんな人々ですか
石徹白のみなさんは、それぞれが自立しているように思います。お互いを認め合う、心地いい人間関係です。実際に住み始めると、子育てや生活など、暮らしの困難さも共有し、協力しあう関係性も生まれます。
―― 子育てにはどんなところですか
いい環境ですよ。お店をやっていると、お客さんとして来た地域の人が息子をあやしてくれたりして、嬉しいです。また、お店が忙しいときは息子をお散歩に連れて行ってくれたりして本当にありがたいことです。町だとなかなかないことだと思います。
―― 生活で不安や困ったことは
雪道の車の運転が得意ではないので、いざ子供に何かあったら、峠を越えていくのが不安ですね。実際には地域の方に頼れるので、不安はないのですが。
石徹白ではスーパーなど買い物できるところがありませんが、無いなら無いでなんとかなります。逆にものをたくさん買わない、シンプルな暮らしが心地いいです。
大変なことといえば、家の草取りや畑の守りは大変かな(全然できていませんが・・・)。あと薪ストーブ用の薪割り。旦那さんが頑張ってくれるけど、自分も手伝えるようになりたいです。
○ “安心感”に包まれて生きていけるところ
―― 将来に不安はありませんか?ご主人の仕事とか。
主人は、社会に必ず必要な人だ、と思っています。だからお金が稼げなくても、飢え死にはしない、そんな確信がありますね。まぁ何かあったら、自分が働けばいいや、と(笑)
ここでは旦那さんを信用しないと、家族は生きていけないと思います。雪下ろしなど、男には男の仕事があります。主人は田んぼや畑など、周りの人に一生懸命学んで、がんばっていますよ。
一方、女には女の仕事がある。男は男らしく、女は女らしく、ですね。
―― では、石徹白の未来への不安はないですか?
不安はありますよ。人が減って、自治会やお寺、神社など、地域の大事なものを維持していくのが大変になっていくのは目に見えています。でも危機感があるからこそ、人は行動する。地域の人々に危機感があったから、石徹白は外の人を受け入れてくれました。
そして、ここでは自分で食べ物をつくることができます。安全な水やきれいな空気もあります。さらに、何よりも安心できるコミュニティの絆がある。生きるために大切なものがここには揃っています。石徹白に住んでいる人は、それに気づいているのですね。そういった本当に大事なものを求める人々が、石徹白には集まるのではないでしょうか。
きっと、どこに住んでいても何かしら不安はあるのでは。何に重きを置くかですね。例えば東京に住んでいた時、生活は便利だけど、隣に住んでいる人を知らないというのは不安。生きることについての不安がある。プラス/マイナスでは「マイナス」かな。
石徹白は、といえば、プラス/マイナスでは「プラス」。食べ物をつくれるのでのたれ死ぬ不安はない。人々は生きる力に溢れていて、何かあれば助け合える。石徹白では“安心感”に包まれて生きていけます。
○石徹白が新しい暮らしに気づける場に
―― お子さんの将来や、ご自身の夢は何ですか?
こどもには、自然の中で、雪に負けない、たくましい子 ―― 「石徹白の子」になってほしいです。魚釣りや田畑ができる、“甲斐性“のある子になってほしい。そして石徹白民謡を唄ってほしいですね。
石徹白洋品店は、みんなが働ける場所になってほしい。初めはお店を一人でやっているつもりでしたが、実際に制作や出品をしていただく、地域の人々で支えられています。働く場所ができて、一人でも多く地域の子供たちが石徹白で暮らせるようにしたいです。
そして石徹白が、新しい働き方、暮らし方を外に示せる場になるといい。食べ物など、生きていくことに必要なものを自分の手で生み出す。生きる力に満ち、そして充足感がある ―― 幸せな働き方、オルタナティブ(*)な生活を示す場にしたいですね。こどもが周りで遊びながら、大人が働く風景も素敵だと思います。石徹白を訪れた人に、刺激的で新しい暮らし方に気づく、そんな場づくりをしたいです。
(※オルタナティブな生活 ― 既存の価値観ではない、もう一つの代替的な価値観をもった生き方)
○石徹白に住みたい人へのメッセージ
雪は大変です。住むのに易しいとことではないです。でも気に入ったなら、来て後悔はないところです。
(インタビュー:ふるさと郡上会 小林謙一 2013.10.16)