いとしろ暮らしインタビュー

【無施肥・無農薬栽培】 子供たちが住める場所であるために、できる限りのことがしたい

インタビュアー

稲倉哲郎さん のプロフィール

「石徹白暮らし体験談」記念すべき第1号は、石徹白で無農薬・無肥料の野菜づくりを営んでいる稲倉哲郎さんです。

稲倉さんは、石徹白に移り住んで、今年で7年目。奥さんの実家の久保田家に、四世代・7人で住んでいらっしゃいます。石徹白に来ることになったきっかけから、石徹白に実際に住んでみてどうだったか、お話を聞きました。

※稲倉さんの営んでいる農園 サユールイトシロのホームページはこちら。
http://sayur-itoshiro.no-blog.jp/

職業として農業を選んだ結果、石徹白に住むことに

―――もともとご出身はどちらだったんですか?

愛知県の弥富町(現在は弥富市)です。両親は宮崎出身でサラリーマン家庭だったので、愛知の地の人というわけでもなかったから、比較的自由だったんですよね。 学生のときに、インドネシアに2週間ほど旅行で行ったのですが、それがなかなかおもしろくて、卒業した後、就職もせずにアルバイトしてお金を貯めて、インドネシアに10ヶ月ぐらい住んでいたんですよ。

―――それはまた、なんでインドネシアだったんですか?

もともといろいろな国の音楽が好きで、あまりお金がかからずに一番行きやすい国は、インドネシアだったんです。インドネシアでは、朝起きて、めし食って、ちょっと語学の勉強をして、地元の人とくっちゃべって、また寝る。そんな生活をしていました。あまりに暇だったんで、インドの楽器を習ってみたりとかして。10ヶ月ぐらいでいい加減飽きて帰ってきました。それで、そろそろ仕事探さなきゃと思って。

学校の就職課の事務所に言ったら、顔見知りの職員の人が、「君にいい仕事があるよ」と言って紹介してくれたのが、白鳥に本社のある大平産業でした。

―――どんな会社だったんですか?

集成材や建材や家具をつくっている会社です。工場がマレーシアとかアジアにあったんです。ここで丸8年働きました。

マレーシア語とインドネシア語は共通している部分が多いので、インドネシア語ができると、マレーシア語もできるんです。仕事上は、語学ができることはそれほど役に立たなかったんだけど、マレーシアから毎年やってくる研修生の世話をする役割は、僕がやっていました。実はこれが縁で、僕が農業を始めたばかりのとき、このマレーシアの研修生たちが週末になると手伝いに来てくれて、ずいぶん助かりました。

―――当時は白鳥に住んでいたんですか?

会社では、マレーシアへは出張するぐらいで、現地赴任はありませんでした。入社して、はじめて郡上に来て、白鳥に住んでいました。

会社に入社した半年後に、かみさん(=しのぶさん。石徹白出身)が入社してきて、その後結婚しました。結婚してしばらくは、二人で白鳥に住んでいました。

―――すると、奥さんと知り合われたのがきっかけで、石徹白に来るようになったのですね。

そうですね。結婚する前後から、かみさんの実家ということで、石徹白に来るようになりました。

最初のうちは、大変なところだなぁと思いました。芳男さん(=しのぶさんのお父さん)たちのほうれん草ハウスが雪でつぶれたことがあって、それを直す手伝いをしたことがあるんだけど、次の日起き上がれんぐらいの大変な作業なんですよね。作業の途中で休憩すると、どえらい静かなんです。怖いくらい静か。峠の向こうでは世間があわただしく動いているということを思うと、なんだか世間から取り残されてるみたいで、すごいところだなと思った。こういうところにはおれんなぁと思いましたね。

―――そうなんですか・・・。
―――そんな稲倉さんが、石徹白に移り住むきっかけは何だったんですか?

そういう意味では、僕は田舎暮らしに憧れて石徹白に来たわけではないんですよね。田舎暮らしが嫌いというわけではなかったけど、憧れというわけでもなかった。むしろ、自分の仕事として農業を選ぶことになったのがきっかけでした。

会社に入って5~6年ぐらい経って、仕事も慣れてきて、ちょっと違う展開も欲しいなと思い始めたんですよ。40代・50代までその仕事を続けているイメージが湧かなくなっちゃった。何か新しいことをしたいなぁと思ったとき、農業がいいんじゃないかと思ったんです。

農業はある意味遅れている業態だから、スキマを縫うような仕事ができそうな気がしました。芳男さんたちがいるから、土地も機械もなんとかなりそうだし、いろいろと教えてもらえる。いろんな意味で、できそうな気がしたんです。

まちと田舎を比較してもしょうがない、
そういうもんだと割り切ってしまえばそれまで

―――石徹白に移り住むにあたって、葛藤とかはなかったんですか?

やはり、子供の教育のことは考えましたね。少人数の小学校では、視野が狭くなっちゃうんじゃないかとか。いろいろな人にも相談したのですが、結局のところ、親次第じゃないかと思いました。まちの学校に行ったからといって、視野の広い人間になれるかというと、そうとも限らない。こういう特殊なところで育った人間が、世の中のためになるかもしれない。最終的には、「なんとかなる」と思って、決断しました。

―――実際住んでみて、困ったことはありませんか?

今のところ、教育の面で困ったことはありません。娘は石徹白のことが大好き。そういうふうに育ててくれている学校に感謝しています。

医療に関しても、幸い家族ともども、命に差し障るような大きな病気・怪我はありませんでした。今は、まちの中であっても病院をたらいまわしされてしまう時代ですから、田舎にいてもまちにいても、病気や怪我で大変なことは起こりうることです。

結局のところ、世の中何でも比較の話になっちゃうんですよね。まちと田舎を比較すれば、それは不便なことはたくさんあります。地理的な条件は、比較してもしょうがないことです。石徹白には確かに大病院はないけれど、都会では得られない自然環境ときれいな水があります。都会の生活基準を持ち込んでしまうと、スーパーが近くにないから不便だということになってしまう。それはそういうもんだと割り切ってしまえば、それまでです。

―――お仕事のほうは、どのような状況ですか?

石徹白に来て最初の2年間は、芳男さんのほうれん草を手伝っていました。その後、無農薬・無肥料栽培をはじめて、今年で5年目になります。5年目までにある程度の形ができあがることを目標にしていました。幸い、4年目まで順調に推移しており、この調子でいけば、当初の目標が達成できるのではないかと思います。

石徹白は、自然条件に恵まれた土地です。寒暖の差があって、水もきれいで豊富なので、美味しい野菜が採れます。一方、冬は雪に閉ざされるため、農業ができる期間は短く、また、大規模経営に向いている土地ではありませんので、大もうけはできませんが、生活に困らない程度の収入があればと思っています。

子供たちが住める場所であるために、
できる限りのことをしたい

―――石徹白の将来について、どのように考えていらっしゃいますか?

子供たちが大人になったとき、どこに住むかというのは、本人の意思によると思います。だけれども、学校・仕事といった最低限の生活基盤がなければ、石徹白は住む選択肢にもならないかもしれない。子供たちが将来、「石徹白に住みたい」ということになったとき、ちゃんと住めるような場所でなければならないと思います。人口が減り、小学校がなくなってしまうおそれがあるということがわかっていながら、何もしないでいるというわけにはいかないと思います。子供たちが住める場所であるために、できる限りのことはしたいと思います。

―――最後に、石徹白に住みたいと考えている方へのメッセージをお願いします。

来るなら来い!っていうところでしょうか(笑)。人が住むのにいいところであることは間違いありません。先の保証は誰にもできないけれど、その気になれば、何とかなると思います。

(聞き手:平野彰秀・馨生里)